| 「人生の道」をみつめて 池田名誉会長 トルストイを語る ① |
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| 2009年 7月 14日(火曜日) 13:24 |
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母を亡くし 父を亡くし 見知らぬ地へ 悩みは人間革命の原動力 人生は「劇」 主役は「私」 自分にしかない使命がある!! 一、人生は旅である。緑の平原もあれば、吹雪の山もある。険しい峰も、断崖もある。ある意味で、人生は悩みの連続かもしれない。 人間関係で悩む。経済面で悩む。家庭で悩む。自分自身のことで悩む。 そのうえ時代の変化は激しい。「一寸先は闇」が現実であろう。 しかし、どんなに闇が深くとも、朝の来ない夜はない。冬の寒さが厳しいほど、暖かい春の喜びは大きい。 だれもが乗り越えなければならない、人生の山また山――それは自分自身を見つける旅である。わが使命を果たしゆく旅である。 トルストイも、そうだった。 私にとって、青年時代から愛読してきたロシアの大文豪である。かつてモスクワのトルストイの家を訪れた思い出も懐かしい。〈1981年〉 私は、晩年のトルストイの顔が好きだ。嵐の日も、雪の日も、毅然と、わが道を歩み通した勝利の顔。本当に、いい顔である。どうやって、あの顔になったのか――。 彼の波瀾万丈の歩みをたどりながら、21世紀を生き抜く「人生の道」を見つめていきたい。 一、トルストイが生まれたのは、1828年8月28日。 ナポレオンとの戦争に勝ってロシアの民族意識が高まり、近代的な改革を求める声が強くなつていた時代である。 家は名門貴族。モスクワから南へ約200キロ、「森の中の明るい草地」という意味の「ヤースナヤ・ポリャーナ」が、家の領地だった。 最近は、モスクワから直通列車が出ていると聞いた。愛称「トルストイ急行」に乗って3時間。外国から訪れる人も多く、文豪の人気は今なお衰えていないようだ。 モスクワにはトルストイ博物館がある。レミゾフ館長は、創価学会の人間主義の運動をよくご存知じで、今年も「トルストイと共通の理念をもつ創価の皆さまとともに、世界平和のために、手を携えて進んでいきたい」と東京富士美術館の野口館長を通して伝言してくださった。 一、トルストイは、5人きょうだいの四男で、名前は「レフ」すなわち「獅子」だった。 「ないものはない」という裕福な暮らし。現代に置きかえれば、1年間の総収入は9億円という試算もあるほどだ。〈藤沼貴著『トルストイの生涯』第三文明社から〉 しかし、2歳になる前に急逝。おばが母親代わりになった。 小さいころ、きょうだいで、仲むつまじい「蟻の兄弟」ごっこをして遊んだ。その時、ニコライ兄さんが教えてくれた。「すべての人が幸福になる方法を書いた『緑の杖』が、うちの近くに埋めてあるんだよ」 トルストイは後年、これを回想して述べている。「今なお私は、すべての人を幸福にする真理があると信じている」 大いなる理想を心に描いた幼年時代。その理想を、トルストイは生涯、手放さなかった。 純粋な若き心の画布に何を描くか。喜びあふれる温かな色彩に包まれた心は、幸福だ。 だからこそ、大人は、子どもの中の「未来」に向かって、勇気と希望を語りかけていきたい。 人生の目的を見つけたい! 一、トルストイが8歳の時、一家はモスクワへ移る。ところが半年後、父親が路上で倒れ、急死してしまう。 お父さんは、もうこの世にいない・・・。 その事実を、少年は長い間、信じることができなかった。 きょうだい皆で、はるか遠い、見知らぬカザンの地のおばのもとに見を寄せた。カザンは現在、ロシア連邦タタルスタン共和国の首都である。 15歳の春、トルストイはカザン大学を受験し、不合格。秋に再挑戦してようやく合格した。 成績は、よくなかった。いわゆる「暗記もの」が大嫌いだった。 そして18歳の春。 トルストイは、体を壊して病院にいた。結局、大学を中退してしまうのである。 一、入院した時、トルストイは日記をつけ始めた。 彼は書いた。「もし、自分の人生に目的を――人々と共通の、有益な目的(中略)を見出せなかったら、ぼくは人間のうちで最も不幸な男であろう」(中村融訳) 何のために生きるのか――。 このころ彼は、人間のつくった社会を超える”根源的なもの”を深く求めていたのである。 私も若き日に日記をつづった。肺病で体の弱い自分を叱咤しながら、困難の中でも、心は希望に燃えていた。 こんな記述がある。 「トルストイの『日記』を読む。偉大な文豪たりとも、生涯、苦悩の連続であった。深く思念することをおぼえる」 昭和25年9月18日。 戸田先生の事業が苦境に陥り、私も全身全霊を捧げて激闘していたなかでの日記である。 嵐の中の青春――その苦悩を突き抜けてこそ、人生の大道は開ける。 前へ! 前へ! 失敗を恐れるな! 「挑戦」こそ青年の特権 新しい目標を 一、18歳のトルストイは、故郷のヤースナヤ・ポリャーナに帰ってきた。 若き地主として、農業経営を始めた。しかし、あえなく挫折する。 モスクワでもペテルブルクでも、新しい計画を立てては挫折。借金で首が回らなくなり、兄への手紙で自分のことを「愚劣! 愚劣! 耐え切れないほどの愚劣さ!」と責めたこともあった。 それでも、へこたれることはなかった。彼は進んだ。前へ! 前へ! 失敗など恐れずに! 日記には、取り組むべき学問として、フランス語、ロシア語、ドイツ語、英語、イタリア語、そしてラテン語、また法学、医学、農事経営、さらに歴史、地理、統計学、数学、音楽、絵画、そのうえ自然科学まで挙げてあった。 挑戦また挑戦! 何度も新しい目標を立てた。 文学の創作も始めた。それは、挫折ばかりしている自分自身を見つめ直す作業でもあった。 一、「挑戦」こそ青年の特権である。目標をもつことだ。祈ることだ。祈りが行動の追い風になる。勇敢なる行動が不滅の歴史を築いていく。 若さは、いかなる帝王たりともかなわない、美と輝きとエネルギーを秘めている。 悩むのは成長している証拠だ。仏法は「煩悩即菩提」と説く。信心の火で悩みの薪(たきぎ)を燃やして、幸福と智慧の光は輝く。 人の何倍も苦労してこそ、大きな人間になれる。人の気持ちがわかる偉大な指導者になれる。 悩みは人間革命の原動力なのである。 信仰を若き心に 一、トルストイ22歳の春。 軍隊に行っていた兄のニコライが休暇で帰ってきた。黒海とカスピ海に挟まれた、カフカス(コーカサス)の戦場から。 兄が戦場へもどるその時――トルストイは、急に思い立ち、一緒についていったのである。 初めは義勇兵で、後に軍隊に入った。 死が身近に迫る生活。雑事で気を紛らす日々。 彼は人間の心の深淵を、ありありと見た。強さも、醜さも、崇高さも。 そのなかで、フランスの哲学者ルソーの著作を読み返した。特に『エミール』に感銘した。亡き母の愛読書だった。 生と死を見つめた、この時の真剣な思索が、彼の信仰の土台となった。本格的な信仰の実践には至らなかったが、若き心に、決定的な「種」が植えられたのである。 トルストイは日記に書いた。「良心は最高、最善の道案内者」「人生の目的は善である。この感情はわれわれの魂本来のものである」(中村融訳) 一、信仰をもつ。良心にしたがって生きる。それが、真に人間らしく生きる道である。 いわんや妙法は宇宙と生命を貫く法則である。最高の善の軌道である。 本質的には、不幸の原因も自分、幸福をつくるのも自分だ。いかなる苦難にも微動だにしない、強い自分、負けない自分へ人間革命し、勝利の人生を勝ち取っていくのが、正しい信仰である。 魂に響く言葉で 一、戦場のそばで、トルストイは小説の執筆に打ち込んだ。 自信はなかった。だからこそ、努力、努力、努力を続けた。 トルストイは読者に向けて書いている。 ――歌を歌うにも、のどで歌えば、しなやかだが、魂に響かない。胸で歌うと、粗野であっても響きが強い。 文学も同じだ。自分は「頭で」書くのでなく、ただ「心で」だけ書くよう努めてきた――。 その苦闘の結晶が小説『幼年時代』である。 何度も何度も推敲を重ねた。意を決して、編集者に送った。 すると絶賛され、「同時代人」誌に載った。読者の反響は大きかった。 トルストイは、ついに作家として認められた。 この時、24歳。自らの使命の道に、大きな一歩を踏み出したのである。 一、人生は劇のようなものだ。主役は「自分」、「今いるその場」が使命の舞台だ。 だれでも、自分にしかできない使命がある。必ずある。いや、使命がなければ生まれてこない、とさえいえる。 自分らしく輝く――それを仏法では「自体顕照(じたいけんしょう)」と教えている。 兄弟であるはずの人類が! 一、カフカスの山民と大国ロシアの戦い。 トルストイは、どう見ていたのか。 彼は、小説『侵入』で問いかけた。 正義はロシアにあるというが、本当にそうか? 山民と戦う理由もなく、ただ自分の勇敢さを示したいだけのロシアの将校に正義があるのか? それとも、母や妻子が隠れる谷間へ兵士が進むのを見て、「幸福が何もかも奪われてしまう」と怒り、死にもの狂いでロシアの銃剣に飛び込んでいく、カフカスの男に正義があるのか――。 どちらに正義があるにせよ、「ぼろの、もも引きをはいた純朴な老人」が捕虜にされ、「若くて心優しい少尉補」が血に染まって死んでいく。それが現実だった。 「戦争?なんという不可解な現象であろう」とトルストイは書いている。 一、作家としての道が開けたトルストイは、軍に退職を願い出た。 ちょうど、そのころ、クリミア戦争が起こった。トルコ、イギリス、フランス、サルデーニャ連合軍と、ロシアがぶつかり合う大戦争である。 トルストイは、一転してクリミア半島へ向かった。たどり着いたのは、最激戦地セヴァストーポリの砦だった。 ここでも彼は見た。戦争の冷酷極まる現実を。 夫に弁当をもっていく途中で爆弾にやられ、足を失ったおかみさんがいた。片腕がなく、骸骨のように痩せた老兵がいた。耐えがたい苦痛にうめき、死をまつばかりの負傷者がいた。 戦況は厳しさを増していく。未来ある青年たちが、命を奪われた。花咲く谷は、無数の死体で埋まっていった。 トルストイは書かずにはいられなかった。 ――キリスト教は愛と自己犠牲を教えている。 なのに、敵も味方も、自分たちのしたことを目の当たりにしながら、どうして「悔悟の念をもってひざまずこうとはしないのだろうか、歓喜と幸福の涙をもって、兄弟として相いだこうとはしないのだろうか?」。〈『セヴァストーポリ』中村白葉訳から〉 これは彼の一生を貫く疑問となった。 激しい攻防を繰り返した末、ロシア軍の砦は陥落した。最初に戦場に来た時から、4年半がたっていた。 トルストイは祖国へ帰った。しかし、強烈な原体験は忘れようにも忘れられなかった。 彼は問い続けた。 人間が殺し合う戦争とは、一体、何だ? トルコと連合したイギリスも、フランスも、ただ人を殺す能力にたけているだけではないか? 文明とは何なんだ? それは時代と社会への鋭い問いかけだった。 巨大な現実を前に、彼は、たじろぐことなく、まっすぐに民衆の幸福を見つめていったのである。 2002年12月15日 聖教新聞掲載 |
| 最終更新 2009年 7月 14日(火曜日) 14:02 |


