| 「人生の道」をみつめて 池田名誉会長 トルストイを語る ⑤ 完 |
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| 2009年 7月 14日(火曜日) 13:42 |
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「戦争のない世界」を「非暴力の21世紀」を!! トルストイ、ガンジー、キングの夢を我らが! 民衆の中へ 民衆と共に! 世界の良心を結集せよ 正義は永遠! 後継の師子がいれば 一、20世紀――「戦争の世紀」が幕を開けた。 目覚めた民衆は革命を求めた。争いが火を噴いた。巨大な暴力が世界を巻き込んでいく。 どうして人々は殺し合うのだ。どうして!――トルストイは叫ばずにいられなかった。 彼は一時、病気になり、うわごとを言った。 「セヴァストーポリが燃えている!」 胸から離れなかった、50年前のクリミア戦争の悲劇の光景だった。 人類は同胞だ 一、1904年、日露戦争が起こった。 トルストイは、直ちに長文の『胸に手を当てて考えよう』を執筆し、日本とロシアの人々に呼びかけた。 ――このままでは、人類は断崖に向かって驀進し、止まることができずに飛び込んでしまう。そもそも、キリストも、釈尊も、人を殺すなと教えているではないか。 民衆は、もう戦争など欲していない。人々の意識は変わってきている。 「現在における大きな戦いは、今日本人とロシア人の間で行われている戦いでもなく、これから起こるかもしれない白色人種と黄色人種との戦いでもなく、地雷や爆弾や銃弾で行われている戦いでもなく、まさに今、目覚めつつある人類同胞の意識と、人類を取り囲み、圧迫を加える闇と苦悩との戦いなのである」(北御門二郎訳) 人類同胞の意識――そのためにトルストイは全魂を注いだ。 インターネットも、テレビもない時代に、トルストイは「世界市民の心」を広げた。人類の良心を結集していった。 彼こそは世界の「精神の柱」だった。「良心の柱」だった。 1905年、血の日曜日事件。そして第1次ロシア革命。 トルストイは、一人、仁王立ちになって、押し寄せる暴力の濁流に抵抗し続けた。 1907年に『一人たりとも殺すなかれ』、1908年に『黙ってはいられない』を書いて、革命家に対する血の制裁をやめよと呼びかけた。 トルストイは絶対平和主義に立ち、一切の暴力を否定したのである。 「心の絆」は断ち切れない 一、この1908年、トルストイは80歳を迎えた。政府の監視・弾圧がさらに強まるなか、誕生日には国内外から、あらゆる階層の人々から、お祝いの手紙が届いた。 「全世界の民衆の心を一つに結びつけてくれた、真理のための休むことなき闘士に」と書いたのはモスクワのレース工場監督局で働く人たち。 エリチルチ工場の労働者は「我々は闇に対する光の勝利を、虚偽に対する真実の勝利を、信ずる心を失いません」とつづった。どんなに権力が恫喝しても、トルストイと民衆の心の絆を断ち切ることはできなかった。〈ビリューコフ著『大トルストイⅢ』原久一郎訳、勁草書房から〉 信仰が人生を決定する 一、人類の心を変えるしかない!――トルストイは信じた。そのために古今東西の英知を集めた箴言集『文読む月日』に力を注いだ。 1年365日、毎日、いくつかの箴言を紹介している。日々、実り多き思想に触れて、わが心を鼓舞してほしいとの願いが込められていた。 トルストイ自身の次のような言葉もあった。 「信仰が人生を決定する」「すべては思想にかかっている」「善き思いは、やがて善き行為に繋がる」「悪しき思想は、否応なしにわれわれを悪の道へ引きずり込む」 「宗教とは――万人に理解できる哲学である」 「万人が兄弟であり、平等無差別であるという意識は、ますます人類のあいだに広がりつつある」 「現在のように全世界の諸民族間に交流が行われているときに、単に自国のみに対する愛を説き、いつなんどきでも他国と戦争をする心構えでいるようにと説くこと――それはちょうど現在睦(むつ)まじく暮らしている人々のあいだにあって、単に自分の村だけを愛せよと説き、各村に軍隊を集め、要塞を築くようなものである。以前は一国の国民を一つに結んだ祖国への排他的な愛も、人々がすでにあらゆる交通機関や、貿易や、産業や、学問や、芸術や、ことに道徳的意識によって結ばれている現代では、それは人々を結合せしめず、むしろ分裂させるだけである」(北御門二郎訳) 生死を超えて 一、トルストイの最期は「家出」だった。家出といっても、侍医がついていった。すぐ三女とその友人が合流し、後から家族も駆けつけた。 なぜ家出したのか。さまざまな説がある。 家出は、立ち止まらない人生を象徴していた。 富も、安楽も、あらゆる世間的名声も振り捨てて真実の道を目指す――そこにトルストイの心があったと私は思う。 〈名誉会長はトルストイの家出と死について、1990年11月3日、創価教育同窓の集いでスピーチしている〉 一、家出の4日前、トルストイのもとに、一通の手紙が届いた。死刑反対の原稿を依頼する手紙だった。トルストイは、それに応え、家出した出先で原稿を完成させた。 その9日後、トルストイは駅舎で亡くなった。肺炎による自然死だった。棺は民衆の手で運ばれた。僧侶は呼ばれなかった。幾千人もの青年や農民、知識人が別れを惜しんだ。雪の日だった。 1910年11月7日。82歳だった。医学の発達した現代に置き換えれば100歳にも匹敵するような長寿といえよう。 死刑反対の文章は、11月13日に『有効な手段』という題で発表された。まさに生死を超え、トルストイは権力との戦いを止めなかったのである。 トルストイの最後の日記。それは「これが私の計画だ。”なすべきことをなせ、何があろうとも・・・”。他の人々の幸福のために、また特に、私の幸福のために、すべてを(なす)」 自他ともの幸福のために行動するのだ――これが絶筆となった。 最後の最後まで友に光を 荘厳なる夕日のごとく 同志のために! 一、悔いのない生涯を遂げた死は、荘厳な夕日のごとく美しい。 人生の最終章を、あの真っ赤な夕日のごとく輝かせたい。友に希望の光を贈りながら、悠然たる一生を飾りたい。 「きょうも広宣流布のために!」「きょうも同志のために!」と、最後の最後まで、わが身を燃やし尽くした人は、必ず永遠の大功徳に包まれる。最後に勝つ人が、真の勝利者である。 正義は滅びない 真実は消えない 一、「正義の道」は滅びない。「真実の道」は消えない。魂のバトンを握りしめて走る「師子」がいれば。 トルストイは生涯かけて、民衆の心に「希望の火」ともした。それは20世紀の二つの世界大戦によっても、消え去ることはなかった。 人権を踏みにじる巨悪と戦ったマハトマ・ガンジー。彼がトルストイの著作を読んだのは、南アフリカの獄中だった。非暴力の思想に感銘し、何度も手紙を交わした。 亡くなる2ヶ月前に、トルストイはガンジーに手紙を書いた。 「われわれには世界の涯(はて)のように思われる(南アフリカの=編集部注)トランスヴァールでのあなたがたの活動が、今日世界でおこなわれているすべての活動のなかで最も不可欠、かつ重要なものとなるのです」(森本達雄訳) ガンジーは、南アフリカの自分たちの農場の一つを「トルストイ農園」と名づけた。敬愛するトルストイに必ず喜んでもらえる農園にしよう――との思いを込めて。 南アフリカ、そして帰国したインドで、ガンジーは命がけの非暴力闘争を繰り広げた。精神の炎は燃え広がった。 やがてアメリカでも、一人の青年が立った。マーチン・ルーサー・キング博士。公民権運動の勇敢なる指導者である。 彼は言った。 「ぼくは、永い歳月の間さがし求めてきた社会改革のための方法を、ガンジーがこのように強調した愛と非暴力のなかにはじめて発見したのだ」(雪山慶正訳) 今日も一歩を! 一、キング博士が凶弾に倒れたアメリカのメンフィス。この地で非暴力の理想を継ぐ人がいる。 マハトマの令孫・アルン・ガンジー氏である。ガンジー非暴力研究所を創立し、所長を務めておられる。私も2度、お会いし、21世紀を見つめて語り合った。 氏は語っている。 「今日、一人の人を変えることができれば、私はそれで満足です。明日は二人の人を、そして次の日は三人・・・。何人であろうと、変えることができれば、それでいいのです。その人たちがまたほかの人を変えるでしょう」(塩田純訳) 暴力のない世界へ――まず人間自身が変わらなければならない。 トルストイが叫び、ガンジーが、キングが受け継いだ生命尊厳の理想。非暴力による精神革命。 それを実現する重大なカギは教育である。そして、文化の交流、民衆と民衆の心の交流を幾重にも広げていくことだ。 それを、創価の我らが世界に展開している。今、新しい歴史をつくっているのだ。 歴史の主役は民衆である。ゆえに、一人ひとりの民衆が強くなることだ。 偉大なる人間革命を、一人また一人と成し遂げていくことだ。 トルストイは書いている。 ――「町まで遠いのですか?」という通行人の問いに、賢者は答えた。 「歩いてみなさい」と。 まず、一歩を踏み出すことだ。歩き始めなければ、どれくらい遠いか、わからない。いな、永久に目的地にはたどり着かない。 歩くか、歩かないか。 立ちどまるのか。大いなる夢への挑戦を開始するのか。それを決めるのは、ほかならぬ自分である。 我らは創価の道を征く。 自分が歩いたこの道は、全部、幸福の花が咲く。自分が励ましたあの友は、全部、永遠の宝友となる。 自分が決めたこの道は、人類の悲願の平和の道だ。父が、母が、あの同志(とも)が、苦難を勝ち越え、開いた道だ。 きょうも、我らは進みたい。 頭(こうべ)をあげて、胸を張り、わが栄光の人生の道を! 世界の友と肩組みながら、永遠の希望のこの道を! 2002年12月25日 聖教新聞掲載 |
| 最終更新 2009年 7月 14日(火曜日) 14:01 |


